第五回読書会のお知らせ
第五回読書会のお知らせです。
日時⇒詳細未定(4月中旬)担当者の都合により5月以降に延期します。重ねてお詫び申し上げます。(4/22)
※担当者の都合により読書会での告知から変更になりました。
場所⇒駒場キャンパス8号館315教室
取り扱うテクスト
Bredekamp Horst: Darwins Korallen. Berlin: Verlag Klaus Wagenbach, 2005.
Bredekamp Horst: Die Fenster der Monade. Berlin: Akademie Verlag, 2004.
Bredekamp Horst: Leibniz und die Revolution der Gartenkunst. Berlin: Verlag Klaus Wagenbach, 2012.
日本語を参照される方は
ホルスト・ブレーデカンプ、濱中春訳『ダーウィンの珊瑚 進化論のダイアグラムと博物学』 法政大学出版局、2010年
ホルスト・ブレーデカンプ、原研二訳『モナドの窓』産業図書、2010年
ホルスト・ブレーデカンプ、原研二訳『ライプニッツと造園革命 ヘレンハウゼン、ヴェルサイユと葉っぱの哲学』産業図書、2014年
備考
思想史は言うに及ばず、美術史を研究している方の参加を特に歓迎いたします。
参加ご希望の方は、メールまたはツイッターでご連絡ください。
メール→komaba.germanisten☆gmail.com(☆を@に)
Twitter→@komaba_deutsch
(担当:高橋)
第四回読書会のお知らせ
第四回読書会のお知らせです。
日時⇒
2015年3月12日、18時〜
場所⇒
駒場キャンパス8号館315教室
扱う文献⇒
Menninghaus, Winfried: Das Versprechen der Schönheit, Frankfurt a.M. 2007
日本語を参照する人⇒
ヴィンフリート・メニングハウス著、伊藤秀一訳『美の約束』現代思潮新社、2013年
読みながら参照してほしい本(出来れば読んで来て下さい)⇒
チャールズ・ダーウィン著、八杉龍一訳『種の起原』岩波書店、1990年
ホルスト・ブレーデカンプ著、濱中春訳『ダーウィンの珊瑚』法政大学出版局、2010年
3月20日に行う、『無限の二重化 ロマン主義・ベンヤミン・デリダにおける絶対的自己反省理論』、『敷居学』、『世界の読解可能性』などの訳者である中央大学の伊藤秀一先生の質問会の下準備ともなる会ですので、伊藤先生が訳されたり書かれた本を読んで、質問を考えて来て下さい。
20日の詳細はまた後日公開いたします。
参加ご希望の方は、メールまたはツイッターでご連絡ください。
メールは、
komaba.germanisten☆gmail.com(☆を@にしてお送りください)
にお送り下さい。
Twitter→ @komaba_deutsch
第三回読書会の報告
第三回読書会では、パウル・ツェラン「子午線」(邦訳:飯吉2012、原文:歴史批判版2014)とビューヒナー『レンツ』(フランツォース版)を題材とした。
はじめに、議論の前提としてパウル・ツェランの詩文を解釈するにあたって前提となる態度を検討するために、デリダ=ガーダマー論争についての概略とツェランの詩篇を題材にした実践についての報告が言語態・テクスト文化論コースの四年生によって行われた。
次いで、「子午線」の検討が行われ、「子午線」を読むにあたって注意すべき具体的なモティーフ(芸術・人形・怪物・ビューヒナー等)や疑問点(そもそも同講演はその難解さで知られる)を共有すると同時に、詩を読むこと(対話か解釈か)や読み・書く行為とテクストの人称性・他者性についての解釈学からのアプローチと脱構築主義による批判、論じること、何のために詩を読むのか、ツェランの詩の場合、ツェランの詩との対話は可能か、或いはツェランの詩を読むことによる共同性の獲得が可能か(より直接的には、読書会で詩篇を扱う事がどのような意味を持つのか)といった根本的な問題まで幅広い観点から議論が行われた。
総じて有意義な会であったが、以下のような反省点が挙げられる。第一に、時間の不足。予定した報告者を二名から一名に減らしてもなお議論が尽きず、さらにビューヒナーについての検討に十分な時間を充てることができたとは言いがたい。第二に、読書量の不足。最低限、ドイツ語原文を参照することは必須である(文学において、凡そ詩人の言葉を、剰えツェランの言葉を翻訳で「読んだ」という事ほどナンセンスな発言はそうあるまい)し、二次文献についても参加者の積極的な準備が求められる。第三に、具体的な詩篇についての検討を十分に行えなかったことが挙げられるが、これについては詩を扱う回全般に当てはまる注意事項として改善したい。
しかしながら、研究会の趣旨としては非常に有意義な会であったことについては断言ができよう。ツェランについては、時間をおいてもう一度このテクストへと回帰し、同じであると同時に異なったアプローチの読書会を行う予定である。
(T.Y.)
第三回読書会についての連絡
19日(木曜日)、東京大学駒場キャンパス8号館315教室(エレベーターで3階まであがって眼の前にある教室です。迷われた方は西澤までご連絡ください)、18時〜行われるパウル・ツェラン『子午線』読書会についての連絡です。
①読書会の冒頭で、二人の学生による発表があります。その際、歴史批判版の段落番号に準じて議論を行います。
②原文の参照が出来なかった場合は、読書会当日2012年版飯吉訳詩文集の段落参照訂正表を印刷して配布しますので、そちらをご覧下さい。(飯吉訳詩文集は版元品切れですが、紀伊國屋書店新宿本店等、都内各所店に在庫があります)
③ビューヒナーのテクストについては序文と第一部(Dichtungen)を各自DLして参照できるようにしてきてください。(ダウンロードは第三回のお知らせに貼ってあるリンクから行って下さい。)
④文献が入手困難な場合等は研究会のメールまでご連絡ください。可能な限り対応致します。
メールは、
komaba.germanisten☆gmail.com(☆を@にしてお送りください)
にお送り下さい。
Twitter→ @komaba_deutsch
大学院生によるドイツ留学報告会のお知らせ
駒場ドイツ語研究会との共催で、ドイツ語圏への留学報告会 を行います。
日時⇒2015年2月12日(木)17:00〜
場所⇒東京大学駒場キャンパス8号館315教室
博士課程の大学院生が、ドイツ語圏の各大学への留学について話してくださいます。
ドイツ語圏の大学への留学をお考えの皆さんの参加を歓迎いたします。
また、ドイツ文学やドイツ思想を大学・大学院で学ぶことに興味のある学生の参加も大歓迎です。
終了後懇親会も予定しておりますので、そちらにも出席を希望する方は以下のアドレスにご連絡下さい。
komaba.germanisten☆gmail.com(☆を@にしてお送りください)
Twitter→ @komaba_deutsch
第二回読書会の報告
第2回読書会では、W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』(白水社、2012年)を扱った。
冒頭で東京大学文学部ドイツ語ドイツ文学専修課程の学部四年生が「写真というメディアが作中でどのような役割を果たしているか」という問いをたて、作中の写真を四種類のコードに沿って分類し、写真というメディアのもつ性格に言及しながら作品解釈を提示した。それに対する質疑応答を行いながら、議論をした。
議論の際に出た論点を分類すると、「記憶」「文体」「イメージ」「アナロジー」となる。
まず、記憶については、「ひとの記憶にとどまる天賦の才がある」(108)とされるアデラに関して、記憶と記述可能性の一致が指摘された。また、アデラの挙措がアウステルリッツの記憶に残ったが、これは一瞬の出来事が強く記憶に残るという記憶に関わる文学で頻繁に見られる現象である。
二点目の文体に関しては、『アウステルリッツ』の段落の少なさが指摘された。全部で五段落しかなく、また「〜とアウステルリッツは語った」という表現が繰り返される。この反復と、作中で度々出てくる夕闇の記述で異化効果や虚構性が高められる。
三点目のイメージに関しては、挿入される写真には絵画的な写真と自然的な写真があるという指摘や、テクストが想起させるイメージと写真が想起させるイメージの間の溝について議論が行われた。あえて重要な写真を提示しないという『明るい部屋』のような手法も指摘された。
四点目のアナロジーに関して。『アウステルリッツ』はピレネーについての言及、幼年時代の写真の提示、フランス国立図書館の記述が存在しており、ベンヤミンを彷彿させるテクストであるという指摘がなされた。駅と想起が結び付いているという点には、プルーストの影響も見られる。また、主人公が言語危機に直面する際の記述はホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』に類似している。ブランキやオッティーリエという名前にはっとする読者もいるであろう。
以上の議論により、『アウステルリッツ』における在と不在の構造、写真やアナロジーを用いつつ、過ぎ去ってしまったものに関してなお語ろうとする試み、ベンヤミンを彷彿させる時間の流れ方、イメージとテクストの関係性など作品に対する複数のアプローチが提示された。
ゼーバルトが作り上げたアウステルリッツという人物の虚構性や、写真とテクストの関係は、ディディ=ユベルマンなどの議論を参照しつつ、より掘り下げることが出来るテーマであろう。
出来事の記述可能性を探るという点でも、次回のパウル・ツェランの読書会につながる有意義な議論が行えたのではないだろうか。
(M.N,)