駒場ドイツ文学・ドイツ思想研究会

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第二回読書会の報告

第2回読書会では、W・G・ゼーバルトアウステルリッツ』(白水社、2012年)を扱った。

冒頭で東京大学文学部ドイツ語ドイツ文学専修課程の学部四年生が「写真というメディアが作中でどのような役割を果たしているか」という問いをたて、作中の写真を四種類のコードに沿って分類し、写真というメディアのもつ性格に言及しながら作品解釈を提示した。それに対する質疑応答を行いながら、議論をした。

 

議論の際に出た論点を分類すると、「記憶」「文体」「イメージ」「アナロジー」となる。

まず、記憶については、「ひとの記憶にとどまる天賦の才がある」(108)とされるアデラに関して、記憶と記述可能性の一致が指摘された。また、アデラの挙措がアウステルリッツの記憶に残ったが、これは一瞬の出来事が強く記憶に残るという記憶に関わる文学で頻繁に見られる現象である。

二点目の文体に関しては、『アウステルリッツ』の段落の少なさが指摘された。全部で五段落しかなく、また「〜とアウステルリッツは語った」という表現が繰り返される。この反復と、作中で度々出てくる夕闇の記述で異化効果や虚構性が高められる。

三点目のイメージに関しては、挿入される写真には絵画的な写真と自然的な写真があるという指摘や、テクストが想起させるイメージと写真が想起させるイメージの間の溝について議論が行われた。あえて重要な写真を提示しないという『明るい部屋』のような手法も指摘された。

四点目のアナロジーに関して。『アウステルリッツ』はピレネーについての言及、幼年時代の写真の提示、フランス国立図書館の記述が存在しており、ベンヤミンを彷彿させるテクストであるという指摘がなされた。駅と想起が結び付いているという点には、プルーストの影響も見られる。また、主人公が言語危機に直面する際の記述はホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』に類似している。ブランキやオッティーリエという名前にはっとする読者もいるであろう。

 

以上の議論により、『アウステルリッツ』における在と不在の構造、写真やアナロジーを用いつつ、過ぎ去ってしまったものに関してなお語ろうとする試み、ベンヤミンを彷彿させる時間の流れ方、イメージとテクストの関係性など作品に対する複数のアプローチが提示された。

ゼーバルトが作り上げたアウステルリッツという人物の虚構性や、写真とテクストの関係は、ディディ=ユベルマンなどの議論を参照しつつ、より掘り下げることが出来るテーマであろう。

 

出来事の記述可能性を探るという点でも、次回のパウル・ツェランの読書会につながる有意義な議論が行えたのではないだろうか。

 

(M.N,)