メニングハウス『無限の二重化』読書会レポート
ヴィンフリート・メニングハウス『無限の二重化』読書会
6月14日と7月5日に、ヴィンフリート・メニングハウス『無限の二重化:ロマン主義・ベンヤミン・デリダにおける絶対的自己反省理論』(伊藤秀一訳、法政大学出版局、1992年)読書会を、ルーマン・フォーラム様と共同で行いました。
詳しい開催趣旨や引用文は、こちらのページをご覧下さい。
ニクラス・ルーマンとドイツ・ロマン主義。関係のない組み合わせに見えるかもしれないが、『無限の二重化』の第Ⅴ章で、メニングハウスはルーマンの思想とドイツ・ロマン主義の反省理論の類似点を指摘する。
メニングハウスは本書で、ヤコブソンの「すべての芸術作品そのものは、パラレリズムの原則に還元できる。詩の構造とは連続するパラレリズムの構造である。」という命題を出発点とし、ヴァルター・ベンヤミンの„Der Begriff der Kunstkritik in der deutschen Romantik” (1920)を丁寧に検討する。そして、シュレーゲルとノヴァーリスが展開した詩的反省理論とドイツ観念論における反省理論(フィヒテなど)との相違点を明確にし、ロマン主義の詩的反省理論の内容を明らかにする。そして、ニクラス・ルーマンとドイツ・ロマン主義哲学の類似性を指摘し、歴史哲学との比較を行う。
読書会、特に第2回では、メニングハウスが「媒質」をどのようなものとして解釈しているかが論点となった。「媒質」は、文中で度々登場し、漠然と意味は分かるが、はっきりと定義する事が難しい概念である。その手がかりとして、「あとがき」を参照しよう。
「あとがき」でメニングハウスはロマン主義以前の創造美学(天才美学)では、「天才としての著者が作品を産出するのではなく、熱狂させる自然――および『神』――が彼において彼を通して生み出すのだ」(『無限の二重化』p.281)と述べ、ロマン主義以前の天才美学では作者が媒質のように機能していたと指摘している。そして、この天才美学とロマン主義の美学の間に共通点はあるものの、その重大な差異は、ロマン主義の美学は「自己創出の定理を創出者からシステムへ位置ずらししたことであろう。」(p.280)と記述する。
メニングハウスは媒質とシステムをほぼ同じ意味で使用しているように見受けられる。そして、その「システム」は第Ⅴ章で述べられていた通り、ルーマンのシステム理論と重なり合うものだ。
ロマン主義の理論が現代社会に応用可能か、を考える時、メニングハウスはそれに対して積極的な解答を提示する。「他のコンテクストに引用されたり取り込まれたりすることは、それゆえこの理論にとってその真正性の危機を意味するものではなくて、むしろその生産性の条件となっている。」(p.284)
捉えがたいロマン主義理論を他の理論と組み合わせて説明をする、その一例をメニングハウスは第Ⅴ章で示したのであろう。差異の提示や類似の指摘、そのような形でロマン主義理論を存立させることは、まさにロマン主義理論を媒質として用いることではないだろうか。
1980年代にメニングハウスが書いた本なので、ルーマンの主要な理論を把握していないという指摘もありますが、メニングハウスが『無限の二重化』で行ったことの意義は、ベンヤミンの『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』読解はもちろん、他の領域に織り込ませて、ロマン主義理論に新しい意味を付与したことでしょう。
今後も、他の領域の方々と一緒に本を読んでいけたらと考えております。
伊藤秀一先生、ルーマン・フォーラムの酒井泰斗様、社会学関係の方々、芸術関係の方々、そして参加して下さった会員の皆様、ありがとうございました。特にレジュメを担当して下さった皆さん、ありがとうございました。また何かの機会に皆様とまたお会いできたらと思います。
西澤満理子