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駒場ドイツ文学・ドイツ思想研究会

駒場ドイツ文学・ドイツ思想研究会のブログです。活動記録等。

「進化論と美学:メニングハウス『美の約束』と神経系人文学」講演レポート

進化論と美学:メニングハウス『美の約束』と神経系人文学講演内容レポート

 

2015年3月20日に、中央大学の伊藤秀一先生をお招きして、インタビュー形式で「進化論と美学:メニングハウス『美の約束』と神経系人文学」と題した講演会を行った。

先生には事前に質問リストをお渡しし、それに答えていただいた。

以下は質問の一部とそれに対する先生の答えの要約である。

 

質問①伊藤先生の主要な訳書についてご解説いただけますか?

『無限の二重化——ロマン主義ベンヤミンデリダにおける絶対的自己反省理論』について

———『無限の二重化』。これは当時、ロマン派の研究をしているなかで出会ったものです。ノヴァーリスフリードリヒ・シュレーゲルの詩的言語についての考察には、かなり単純化していえば、観念論哲学から脱却するためのもがきのようなものが読み取れます。カントやフィヒテは、言語には思考に付き従いそれを補佐する従者としての役割しか与えませんでした。カント”Anthropologie in pragmatischer Hinsicht”(『実用的見地における人間学』)で言語記号を概念に奉仕するWächter(custos)と位置づけています。カントは数学には構成的(konstitutiv)な機能を認めましたが、言語は統制的(regulativ)なものに制約しています。ロマン派は、言語にも構成的な力動があるのではないかと考えたようです。その構想がromantische Poesieという概念に結実したと考えられます。Poesieはpoiesisなので創造・産出ですね。

 研究を続けている時に出会った、ああこんなふうに書きたかったと思える本が、”Unendliche Verdopplung”だったわけです。

 その後メニングハウスに連絡をとり、翻訳を行いました。その後もメニングハウスとの交流は現在に至るまで続いています。

 

『敷居学:ベンヤミンの神話のパサージュ』について

———『パサージュ論』だけにとどまらないベンヤミンのパサージュ体質を論じています。敷居は通常、敷居が高いとか低いとか、日本人にはどうも立ちはだかるハードルのように聞こえてしまいますが、ここでは通過ということが要です。夢と覚醒、神話と日常、神話とメルヒェン、建物と街路、こうした対立を媒介する弁証法的な敷居経験を基礎づけているのが、彼の言語論で形成されたMediumtheorieです。(『敷居学』pp.91〜93参照)

 この媒質概念は、『無限の二重化』で考察された「反省媒質」につながります。ベンヤミンノヴァーリスフリードリヒ・シュレーゲルの反省理論にそうした考え方の端緒を見つけました。言語は思考を媒介するメディアですが、このメディアがなければ思考はない。言語が思考を自己触発的に創出する。そうしたメディアールな通過・横断経験が、ベンヤミンの考察のあらゆる場面で重要な役割を果たしているという、小さいけれどとても濃い内容の本です。安いのでぜひ買ってください。

 

質問②人文書の翻訳について何か学生にアドバイスはありますか?

———人文書の翻訳ですか。先に述べたように、自分が書きたかったような内容の本を訳すのは楽しいですね。勉強にもなるし。仕事の進め方は人それぞれだと思います。まあ、半分くらい読んで、これならあまり苦労しないかなと思えるとき着手するとか。あと、出版にこだわらずに自分用に翻訳するというのも勉強になるのでおすすめです。論文に引用するときに楽だし。あと、自分で翻訳に携わっておきながらこんなことを言うのもアレですけれど、研究論文を書くときに翻訳を信用してはいけません。原著に当たらないと、誤訳をそのまま論文に引用してしまう危険があります。デリダのドイツ語訳にもひどい誤訳があったし、欧文系同士でも間違いは発生します。

 しかし、手に余る物は翻訳を引き受けない方が良いでしょう。

 

質問③メニングハウスの研究を支えるドイツの制度的基盤について。

———ドイツは学費がタダ、もしくはごくごく低額。そして学食にも補助が出ているので安いです。日本より格段に学生寮が充実しており、学生として生活することがとても楽。日本は、学生と大学を社会が支えることに本当に意義を見いだしているのかどうか疑問に思える。そのうえ、会社に入ってすぐに役立つ人材を作れという要請を大きな声で平気で口にできる社会環境がある。

 ドイツの大学については、DAADのサイトに「ドイツの大学システムの概要」という項目があるのでそこを読んでください。

 

質問④メニングハウスの著作を『ベンヤミンの言語魔術理論』から出版年度順に読んで行くと、『吐き気』と『美の約束』の間に「転向」と形容すべきような断絶があるように感じますが?

———これは聞かれると思っていました。しかし「転向」ですか。これはかつて共産党から足を洗った人たちに向けて用いられた言葉ですね。裏切りとか足抜けとか逃亡とか、そんな負のイメージを喚起する。せめて「転回」と呼び直しませんか。メニングハウスの「転回」についてです。転回は英語でturn,ドイツ語でWendeとなる言葉ですが、20世紀後半の構造主義以降の言語論的転回(linguistic turn)などにも使われる単語ですね。

 さて転回となると、どんな転回でしょう。Empirische Wende? で、それが『美の約束』で唐突に始まったということでしょうか?

 まず『吐き気』と『美の約束』の間に断絶があるかどうかですが、両者をつなぐキーワードは身体論だと思います。身体論という言葉はあまり厳密ではないのに、けっこう頻繁に人文系の議論で使われていますね。そもそもこの質問会の準備をするとき、身体論と書きかけて、ふと西洋語では何というのだろうと首をかしげました。岩波の哲学思想辞典に「身体」の項目はありますが「身体論」はありません。Somatikというドイツ語があるかと思って調べましたがなかったし、Somatologieというのはあったけど、またこれはちょっと違う。ただし、19世紀末あたりからヨーロッパの哲学には身体論的転回と呼べそうな現象が現れてきます。プラトンは”soma sema”(『肉体は墓である』)と言いましたが、牢獄とまでいわなくても身体が精神の容器として不当に軽んじられてきたのが近代までの西洋の思想だと思います。19世紀あたりから身体に着目する思想がさまざまな形で現れてきます。ベルクソン、メルロ・ポンティ、サルトルバタイユニーチェフロイトもそのようなくくりで語ることができるでしょう。『吐き気』は生理的なものと文化的なものの交点に位置する感覚(aesthesis)の考察として、このような一連の身体論的潮流に連なる文化学の成果であると考えることができます。それはラカンの用語でいえば現実界への着目ともいえるかもしれません。『吐き気』のなかでメニングハウスは、「文学がアブジェクトな身体と欲動の運動を、『倒錯化』するかたちで『転覆的』に〈象徴体制〉のうちへ書き込む」(p.714)、と書いています。象徴界とは、父としての、掟としての言語が織りなす秩序ですが、文学が言語芸術である限り、象徴界に書き込むしか手立てはない。ここでアブジェクトなものといわれるのは、穢れとして表象される母の身体であり、クリステヴァはこれをプラトンから引いてきた名状しがたい場所としてのコーラと呼びます。これは現実界(le réel)と言い換えることができるでしょう。メニングハウスは『吐き気』のなかで、クリステヴァのアブジェクション理論を「ここ10年ほどのあいだの文学論や芸術論においてさまざまな符丁のもとに観察できる「レアルなもの」(das Reale)の回帰を促進する」(p.740)と書いています。

現実界、これはこの文脈においては肉体の穢らわしさとして現れます。受け入れがたい現実として、フロイトアウグスティヌスの言葉“Inter faeces et urinam nascimur“を好んで用いていました。我々が生まれ出てきた女性器の産道は尿道と肛門の中間に位置しています。そしてそこはまた、性行為が成就する場所でもあります。恋愛は美しいものとして、音楽、詩歌、絵画でさかんに表現され、誰もそれをとがめませんが、性行為の公開はたいていの文化で禁忌であり、処罰の対象になります。なぜ禁忌として表に出してはいけないか。その理由として法律では「普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反する」からとしています。正常で善良な感覚にとって受け入れがたい現実界(das Reale)。誘惑する美しさという皮膜の裏側にあるdas Reale。

 ダーウィンにとって動物の外見の美しさは、繁殖パートナーを魅了し、配偶機会を高め、性行動の開始を直接に促進する性的装飾でした。発情期になるとチンパンジーの雌は膨らんだ性器を充血させ雄を誘います。雄にとってこの性的装飾はまさしく「魅了される美しさ」なのでしょう。しかし人間は違う。アブジェクションのアンチノミーを考察するためにメニングハウスが選んだ参照項はダーウィンでした。“ The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex”はメニングハウスが『美の約束』においてもっとも多く引用した書物の名前です。Descentとは下降、下落という意味もありますが、ここは「出自」ぐらいの意味なのでしょう。まあしかし、人間を文明によってゆがめられた存在であると考えれば、ダーウィンがこの語に自然の秩序から墜ちてしまった人間という意味を込めていたと推測するのも楽しい。ダーウィンほどの古典的な学者になると、テクストそのものを精読されずに、世間に流布している一般了解で片付けられることが多いのですが、メニングハウスは、本業の得意技、精読によって多くの着想をダーウィンから得ることができました。長くなるのでこの質問についてはここまでにします。

 

 

質問⑤本文中に外国語の引用が多いのはなぜでしょう?

———ダーウィンに関しては、メニングハウスが書いているように、ドイツで流通している翻訳が、訳語のチョイスも含めてあまりできの良いものではないことが理由でしょう。なにしろナチズム選民思想に利用されたときの用語がその訳語でもあったのです。そしてオリジナルの引用をしめしてもらうほうがうれしい読者も多いのです。

 

質問⑥自然科学の領域に人文学者が踏み込むことについて批判はなかったのでしょうか?

———自然科学は専門外の人間にとっては難解であることが多く、使われている数式や概念も近づきがたいものがあるからです。であるのにメニングハウスはなぜザハヴィ、ハミルトン、シンといった現代の進化生物学者たちに突っ込みをいれることができたのか。それは、彼が書いているように、性淘汰と美的淘汰についてのネオダーウィニズムの理論は、厳密な経験科学とは言えないからです。進化論的説明には思弁的にして大胆で空想豊かな仮説を作る必要があります。データを最大限に解釈して物語のように総合しなければ何も語れません。ダーウィンは天才だったので、しっかりと性淘汰と自然淘汰を分けて考えました。しかし美しさという曖昧な視点を現在の進化生物学はなんとか自然淘汰の理論に一本化しようと腐心します。そして無理をした結果、理論にほころびが出る。メニングハウスは職業柄、非常に優れた読解力があるので、楽しそうにそうした欠点を指摘することができたわけです。

 

 

質問⑦神経系人文学について。(Neuronale Bildwissenschaftenについて)

———いま研究所では脳波計を用いて実験データを取って分析するという、まさしくニューロナルな研究が行われています。ぼくにはわからない世界です。(日本人の坂本泰宏さんもマックス・プランク経験美学研究所でそのような実験を行っています)

 メニングハウスは文学系なので、韻律論への応用を考えているようです。そうした仕事は、研究所に移る前にベルリン自由大学で、Languages of Emotion という競争的資金を潤沢に投入したプロジェクトですでに始められていました。こうした一連の研究は、博士論文のころから彼の関心事である詩的言語における反復の力、パラレリズム(これは『無限の二重化』の出発点となるタームです)やその定式化である韻律の考察につながっています。

 Philosophisch fundierte empirische Ästhetik というものがあるとするなら、彼がいま手がけているのはそうした研究でしょう。

 

 

質問⑧『美の約束』は第5章が一気に削られていますが、それはどのような事情があったのでしょう?

———本来のSuhrkamp版の第5章を決定的に覆したいような出来事が、Languages of Emotionの中でメニングハウスに起き、第5章が異物となってしまい、『美の約束』から第5章を外したのではないでしょうか。その結果書かれた“Wozu Kunst?“は性戦略としての芸術や、芸術というものがカントの言うInteresseloses Wohlgefallenを与えるだけではなく、生命/人生(Leben)を促進するという実利があるものなのではないか、という書です。韻律論についても語られ、実際に美的なKunstというものの正体を哲学的に基礎付けながら、それと同時に自然科学のデータを用いて説明しています。

 

質問⑨フロイトとの接続は上手くいっているといえるのでしょうか?また、自然科学者からの批判はなかったのでしょうか?

———フロイトダーウィンも基本的には同時代人で、ともに美しさは性的装飾として繁殖行動を促すものである、という点には疑いは持っていません。しかし、全体像へ拡散することによって昇華を伴うのが人間の文化で、そこで違いが出てくると『美の約束』第4章では言っています。ダーウィンの言う性淘汰は、例えば猿が性器の美に喚起されるように部分に対するものですが、フロイトは人間が部分ではなく全体へと拡散する魅力や刺激に惹かれ、それに昇華を伴っていると考えます。それは美しさが繁殖と正の相関をなし得ない人間にだけ見られる特徴の一つの根拠になっており、ダーウィンが答えを見付けられなかった疑問に答えたのがフロイトと言えるでしょう。

 後半の質問に対してですが、メニングハウスの見立てでは、進化論は厳密な経験科学ではありません。現在のメニングハウスは遺伝子などの領域に踏み込み、Languages of Emotion後は積極的に自然科学者達と交流を行っています。

 

質問⑩ドイツでは文系と理系の対立などはあるのでしょうか?

———ドイツでも学部間の争いはあり、人文系の学部がOrchdeenfach(観賞用で何の訳にも立たない美しいだけの花)と揶揄されることがあります。メニングハウスはOrchdeenfachで良いとは思っておらず、臆せずに様々なデータ処理に取り組み、安易な文理融合という形で自然科学に吸収されるのではなく、堂々と切り結ぶ「本気の人文科学」者と言う事が出来ます。(『本気の人文科学』は田中純先生が発案なさったタームです)

メニングハウスは新しい人文科学の可能性のひとつを示したと言えます。

 

 

 

伊藤秀一先生に重ね重ね御礼申し上げます。

 

 

駒場ドイツ文学・ドイツ思想研究会

文責:西澤満理子